昨日、散歩の途中『二宮翁』の立像をパチしました。
小次郎は小学校を卒業してから数十年が経ちます。当時通っていた小学校は2度建て替えられており、2度目は違う場所に移転しております。
当時の記憶は小次郎のエーテル体に格納されてはいるんですが、曖昧模糊の状態でセンチメンタルを誘い出す元素の働きです。昨日は、7kmの散歩コースをチョイスして、小学校の奥の森まで行きました。帰り際、一昨年新築の小学校の前を通過する直前、あの二宮金次郎(金治郎とも言う)の立像、柴を背中においねて、読書するあの金次郎さんは、移転されているんかな。
ありました。玄関の右側に鎮立座されておられました。センチメンタルの波が押し寄せてきて、もう少しで落涙しそうでした。
帰ってきてから、ウィキで二宮尊徳さんをいろいろ調べました。彼が偉大であったことは朧げながら覚えていますが、具体的にどのように偉大であったのか、ここを確認しました。
二宮尊徳とは
1787~1856年。江戸時代末期の農民思想家。通称、金次郎。14歳のとき父を、16歳のとき母を失い、田畑は酒匂 川の洪水によって流失して伯父の家に寄食。苦学して一家を再興し、田畑約4町歩をもつ地主となった。旧主小田原藩家老服部家の家政改革を託され、その手腕を認められて、小田原城主・大久保忠真から模範篤農家として表彰される。さらに小田原藩領下野桜町、駿河、相模、伊豆の3国、常陸国真壁、芳賀両郡、幕府の日光神領900ヵ村などの復興に従事。600以上の村々を甦らせた。その思想や生き方は、豊田佐吉、安田善次郎、御木本幸吉、松下幸之助、土光敏夫、稲盛和夫など、大事業家たちに多大な影響を与えている。
これは一般的なご紹介ですが、もう少し踏み込めば
彼が独自に勉学した・神道・仏教・儒教 そしてここが重要なのですが、
『農業の実践』から豊かに生きる知恵を導き出したこと。
さらには報徳思想と言われる
・至誠
・勤労
・分度
・推譲
特に基本的な概念として、分度と推譲は、それぞれが分に応じた生活を守り、余剰分を拡大再生産に充てる。
この概念は、今人類が一番忘れていることではないでしょうか。
まあ、小次郎さんもしっかりと忘れてました。美味しいものが食いたい、カッコ良い服が着たい、新しい車・パソコン・スマホが欲しい、目に付くもの全てが欲しい、こんな生活を小次郎さんも送っております。
『分に応じた生活』、只今新型コロナ禍、変異株のコロナ禍ではあるのですが、分に応じた生活を基本と位置付け、ここから思考回路を発展させていけば、その先に我々が生き延びられる何かが待っているのでは、そんな感慨を二宮翁は与えてくださるのじゃないかな。
って、今、家人が外出している間に一合の美味しいお酒を飲みなながら投稿いたします。